最近レビュー記事が続いたのでエッセイのコーナーです。
11年ぶりに竹村延和の新譜が出るというニュースを見た。というのを入り口にして自分の話をします。
ニュースはこれ。
記事には本人の短いコメントが載っているのだけど、そこには「リスナーは単に多義的なものとしてジャケットのガラスの断片・モザイクから、各自自由に全体像を描き、受け取ってもらえれば幸いです」とあり、つまり作者自らはアルバムとしてリリースされる楽曲たちについて、何の意味も提示しないということが宣言されている。これが個人的にすごく居心地がよく感じた。
---
僕は学生時代、西暦でいうと90年代終わり~2000年代前半にかけてこの竹村延和というアーティストがとにかく好きで、特に1997年のアルバム「こどもと魔法」は音源がなくても頭の中でまるっと再生できるくらい聴いた。
当時の音楽シーンを少し振り返ると、ひとつには音響派という音楽ムーブメントがあった。音響派というのは音楽における音響、つまり音の響きであったり手触り、空気感、そこで鳴っている音そのものが鑑賞対象であるという考え方である。逆にいうと演奏者のパフォーマンスや歌詞に込められた意味はもちろん、メロディの美しさ、コード進行といった音楽的な要素まで含めた「意味的なもの」はすべてさほど重要ではない/場合によっては鑑賞上のノイズであるという、けっこうエクストリームなムーブメントである。
ムーブメントと言っても「私は音響派に属している」というような表明をするアーティストがいたような覚えはあまりなく、どちらかというと音楽誌による評論やレコード屋におけるジャンル分けの中で多用されていた括りで、リスナー側の鑑賞姿勢として活用されることも多かった概念だったと思う。
で、ちょうどその音響派のブームと重なるような時期にエレクトロニカの流行というのもあった。これはダンスミュージックとして発展してきた電子音楽をリスニング用としてとらえ直すようなムーブメント……というかジャンルで、その出自からか基本的にはビート音楽なのだけど、単なる打ち込みではなくカットアップやグリッチな手法とかMAX/MSPみたいなプログラミング環境で作られた音楽だったり、かと思えば生楽器を大胆に入れたりとかして、とにかく実験的なことは全部やるみたいなエキサイティングなジャンルだった。
エレクトロニカの曲というのはとにかくタイトルがめちゃくちゃ適当で、上に挙げたアルバムからいくつかピックアップすると「Cars(車)」、「She Loves Animals(彼女は動物が好き)」、「Yippie(わーい)」といったような感じで、Ovalprocessに至っては1曲目が「untitled(タイトル未定)」で、2曲目目以降「Track2」「Track3」……と続く。
これらのエレクトロニカのアーティストが音響派を標榜していたわけではないが(先に「日本には」と書いた通り音響派という括りは日本ローカルなものであったという話もある)、ここにあるのも「意味の放棄」のようなものであると思う。音楽という作品がすでにここにあるのに、なぜ言葉を使ってそこに別の色を塗らなければいけないのか。タイトルとは単なるID、識別子であって、意味を有する必要はないのではないか。というかいちいち考えるのめんどくさいしそうすることに異議を感じない。……と各アーティストが語ったのを聴いたわけではないが、リアルタイムで見ていて全体にそういう印象を受けた。
---
そんな音楽にどっぷり浸かって青春時代を過ごしてきたので、いまだに音楽に「意味」があることに抵抗がある。正直、歌詞というものがあまり好きではない。「これは○○をイメージした曲です」というのさえちょっと抵抗がある(めちゃくちゃ極端な嗜好なのは自覚している)。
意味や言葉が構成しているような世界で捉えられない美こそが音楽なのではないか、という思いがある。
ふりかえって歴史的に見れば、最初の音楽は「うた」から始まったのかもしれない。
ただ時代を経るにつれて、楽器や記録媒体の発明により、音楽は意味の世界から分離可能になり、より純粋な形で存在できるようになった。
それはなにも音響派やエレクトロニカから始まった話ではなくて、ベートーヴェンの「運命」だって後世に勝手につけられた名前であって、もともとは交響曲第5番でしかないのだ。
で、さらにいうと、それって音楽に限った話ではないと思う。
何であれ、実体はそれそのものであって、そこには言葉では言い表せない複雑かつ繊細なあれこれが詰まっている。それなのにそこに言葉という卑近なコードを使ってラベルを貼ると、実体の持つありようがそれに隠蔽されてしまう感じがする。
僕は身近なものであっても物に名前を付けることにすごく抵抗があって、たとえば自分のハンドルネームはnomolkとしているけれどもこれは言語的な意味を避けたアルファベットの羅列だし、あえて読み方も不明瞭にしてあった。(途中でハンドルネームは人に呼ばれるものであるということに気づき発音を「ノモルク」とした)
たまにDTMをやっているのだけど曲名をつけるのが嫌いで全部日付のファイル名にしてある。電子工作の作品も名前を付けるのが嫌で、「醤油をかけすぎる機械」とかそのまま機能で呼んでいる。
いやタイトルも名前も、識別子なので機能上必要なのだ。要るんですよ。だからこれは「そんなものあるべきではない」という主張の文章ではない。要る、わかる、でも付けるのすっげえ嫌だなという気持ちがある、ということが言いたいだけ。
このあいだ人に自分のYouTube動画を見せる機会があって、「右下にいるキャラクターはなんていうんですか?」「名前はないんです」「え、名前つけてあげた方が良いですよ」「でもないんですよ~」というようなやりとりがあった。そんな他愛のない雑談の中で意固地な抵抗を見せるなよという感じもするけど、そのくらいなんか忌避感がある。命名に。
そんなことを言いつつ僕の本業は編集者でライターなので、仕事の大半は全てのものに意味をつけて言葉で表現していく作業である。これはめちゃくちゃ暴力的なことなのではないかと思うことがある。それだけに慎重にやっているつもりではあるが、完全はない。「言語化」が最近もてはやされている気がするけど、状況次第ではけっこう粗暴な行為かもしれんとも思うのだ。
ちなみに記事にタイトルをつけるのだけは抵抗がない、記事はもともと意味の世界のものだから。意味とは違うレイヤーで成り立っているものを、意味の世界に引っ張り出してくることに抵抗感があるのかもしれない。
---
ぜんぜん違う話になったところから急に話を竹村延和に戻すのだけど、この人は当時も音響派もエレクトロニカもどっちもその括りに入れられたり入れられなかったり、フワフワした感じで扱われていたと思う。またさっき挙げたようなアーティストに比べると、タイトルもしっかりした世界感の下に命名されているものが多いと感じていた。
ただ彼が今回「リスナーは単に多義的なものとしてジャケットのガラスの断片・モザイクから、各自自由に全体像を描き、受け取ってもらえれば幸いです」というコメントをしたのは個人的にとても音響派的でエレクトロニカ的な姿勢であるような感じがして面白いと思った。全然そんな意図じゃなくて僕の読み違いだったらごめんという感じですが。
また、そうやって意味を提示することを拒否した11年ぶりのアルバムのタイトルが、『意味のたま』なのである。おもしろ!と思ったのでこの文章を書きました。アルバムが楽しみです。
↓先行リリースされているトラック
www.youtube.com