※この文章は人生において不利な特性について書かれていますが、「こういう人がいることを知ってほしい」とか「理解してほしい」みたいな意図で書いたものではなく、どちらかというと、普通に顔が見分けられる人にとって、「店員に待てと言われてもついていくと楽」みたいな情報は異文化として面白いのではないか、という意図で書かれた「興味深い読み物」です。
人の顔がわからない。わからないというか、人の顔を見分けるのが難しい。
こういう症状で有名なのは相貌失認という病態だけど、それとはたぶん違う。相貌失認の人は親しい人であっても見分けられないらしいのに対して、自分の場合は見慣れた顔なら見分けられる。妻の顔は人混みの中でもわかるし、同じチームの同僚の顔もわかる。会う頻度が少なくても長年付き合いがある友人はわかる。
でも会社で同じフロアにいる隣の部の人は見分けがつきにくかったりするし、立食パーティでついさっきまで話していた人が、移動するとどの人だかわからなくなることもある。
なぜ見分けられないのか
この理由はシンプルで、複数の人が同じ顔に見えるからだ。
会った人のことは髪型や眼鏡の有無+なんとなくの顔の印象、くらいの情報でカテゴリ分けして覚えていて、同じカテゴリにいるAさんとBさんが見分けられない。Aさんがいそうなところに同じカテゴリの知らない人がいると、Aさんだと思ってしまう。
最近よく使われる言葉で「解像度が高い/低い」という言い回しがあるけれども、自分は人の顔に対する解像度がメチャ低な状態である。
わかりやすく言うと、「最近のヒット曲は全部同じに聞こえる」の顔版。あるいは「最近のアイドルは全員同じ顔に見える」がデフォルトで全人類に適用されている状態だと思ってもらえばいいと思う。
いっぽうで長い付き合いの人にはだんだん解像度が上がっていく。髪型や服装だけでなく、顔の感じで区別できるようになる。同僚でも数年同じチームで働いてるくらいの関係だと完全にわかる。
顔を絵として記憶できない
なぜ人の顔をカテゴリで管理している(せざるをえない)かというと、人の顔を絵として記憶できないことが原因だろうと思っている。人物の顔を頭の中でイメージできない。毎日会っている妻の顔であっても、本人がいないところで思い出すと、ぼんやりとしか思い描けない。
よくその場にいない人のことを「ほら、面長の…」とか「目が一重の…」みたいに表現されることがあるが、そもそも顔をイメージできないのであんまりついていけない。
あと、人の顔を思い出そうとすると、顔そのものではなくて、その人が写っている写真を思い出していることが多いように思う。写真で覚えるというのは有効らしく、写真をよく見る相手(仕事で運営しているサイトのライターさんとか)は会ったときもわかる。
実物の顔から受け取れる情報量が少ないのかも?
なんで?
これは憶測だけど、僕は心療内科でASDと診断されていて、そのせいではないかと思う。担当医も「ASDでそういう人は結構いる」と言っていた。
専門書を読むと「定型発達の人は人の顔に対して脳が敏感に反応するが、ASDの場合はそれが弱く、だから他人の表情を読んだりするのが苦手なのだ」ということがよく書いてある。表情を読むのと顔を識別するのを一緒にしていいのかわからないけど、無関係ではないのではないか。(※末尾にASDの顔認知能力に関する論文情報の追記あり)
困ること
他人にこちらから話しかけることができない
自席にいる人や名札をつけている人には話しかけやすいが、そうでない場合は別の人と混同して誤爆するリスクが大いにあるので、話しかけるのに抵抗を感じてしまう。たまに意を決して話しかけると、別の知らない人でポカンとされることがけっこうある。特にフリーアドレスのオフィスとの相性が悪い。人事部のなんとかさんに書類を出しに行く、みたいなのは鬼門。
今の会社は小さい会社なので「広いフロアから一人を探し出す」みたいなミッションが発生せず快適。集団が少人数であれば顔カテゴリがかぶりづらいので識別しやすい。
「ばったり会って挨拶」ができない
知人(だと思われる人)とのすれ違いざまに毎回、強制参加のギャンブルが発生していると思ってもらえればよい。
賭ける先 | 正解の場合 | 不正解の場合 |
---|---|---|
本人にBET(挨拶する) | 好印象(+2) | 恥ずかしい思いをする(-5) |
別人にBET(挨拶しない) | 何も起きない(0) | 無視したことになり悪印象(-10) |
どっちを選んでも期待値がマイナスになる、やらなくて済むなら絶対にやりたくないギャンブルである。だが残念ながら強制参加だ。
特に難しいのは近所の人や子供の友達の親で、月に1~2回以下しか会わないので顔の識別が難しい。
近所というオープンな空間には通行人を含めると無限に人がいて、同じ顔カテゴリの人もいくらでもいるので、「ここだ!」と思ってあいさつしたときのヒット率も低い。とはいえ感じよく接しておきたい関係性なのでわりと困る。
大人数の名刺交換がむずい
相手先が5人くらいいる状況で名刺交換をすると、誰と交換済みで誰がまだなのかわからなくなる。「5人いるのに手元の名刺は4枚、果たして…」みたいな謎の名探偵タイムが始まる。
映画やドラマがわからん
現実に比べるとフィクションの登場人物はキャラ立ちしていて見分けやすい場合が多いが、それでも2~3人は見分けられない人が出てきてストレスになったりする。
(フィクションに限らず現実でも、同一人物だと思っていた有名人が実は別人だった、ということはよくある)
店員を見失う
店で店員に質問して「少々お待ちください」つって一回下がられると、どの店員だったかわからなくなる。待てって言われてもぴったりついていく。
制服やユニフォームはやばい
画一的な服装をされるとまじで立ち回りの難易度が跳ね上がるので勘弁してほしい。
ただ中学高校の学校生活は意外に難しくなくて(席が決まっていたり、誰々は誰々とよく一緒にいる等の状況で判断できたり)、むしろ帰り道に前を歩いている人が友達かどうかがわからん、みたいなところが難しかった覚えがある。
自分が考えた「○○さんと○○さんって似てるよね」が全く賛同を得られない
ほぼ100%、「え?」って言われるので、思っても言わなくなった。まあこれは別にどうでもいい。
悲しい
これは困りごとというより単なる感情の話だが、妻や子供の顔をぼんやりとしか思い出せないのはちょっと悲しい。
あとこのあいだ学校から子供がワーっていっぱい出てきたときに自分の子供が見分けられなくてちょっとショックだった。
有益なもの
名札
とにかく全人類が名札をつけていてほしい。額にタトゥーで入れてほしいが、そうすると後ろから見えないので首筋にも入れてほしい。展示会とかで出展企業名の書いたタグをつけている状況だけでもだいぶ助かる。
奇抜な髪形、メガネ
社会人になったあたりから自分は「他人が自分を見分けやすいように」と思ってできるだけ変わったメガネを選ぶようにしていたのだが、途中でそもそも自分以外の人は見分けにそんなに苦労していないことに気づいた。
奇抜な服も見分けやすいけど、服は毎日同じものを着ているわけではないので、髪形やメガネが変わってる人が好き。
新しい眼鏡みて pic.twitter.com/45JdxH88O8
— メルセデスベン子 (@nomolk) 2018年12月21日
↑今のメガネ。メチャ気に入っている。
Facebookは全員やってほしい
Facebookは名前と本人の顔写真が並んでいる「人の顔カタログ」みたいなもので、とにかく有用。マーク・ザッカーバーグもASDだと聞くので、(これは憶測だが)もしかしたら同じような症状があってこういったものを必要としていたのではないか、と思っている。(Facebook=顔本、という名前もできすぎているし、実名主義なのもサバイバルツールとしての顔カタログ用途に都合がいいのではないか)
Facebookがあれば、待ち合わせの前にその人の顔を写真で予習できるし、「あの人はAさんだろうか、そうっぽいけど自信がない…」という状況でも顔写真を見返して確認できる。
一定世代以下だとFacebookをやっていない人も多いが、できればアカウント作って写真だけでも登録しておいてくれると嬉しい。あとやっている人はできるだけ顔写真を設定して、大きく印象が変わった場合(ロングヘアをバッサリ切ったとか、メガネからコンタクトにしたとか)は更新しておいてもらえると助かる。
リモートワーク
とにかく「人を顔で見分けて話しかける」ミッションが発生しないので超快適。
連絡はメールにしろメッセンジャーにしろ文字で宛先が出るし、Zoomミーティングをすれば顔の横に名前が出ている。
たまに出社してもオフィスに人が少ないので人違いする確率が少なくて、正直コロナ禍はとても快適に過ごせている。
パソコンにシールを貼る
一時期エンジニアの人とかがノートPCにステッカーを張りまくっていたが、あれはパソコンをもとに誰だか見分けやすかったのでわりと助かった。
携帯電話や内線
待ち合わせのとき等に「それっぽい人がいるけどあってるかな…」と思ったら、電話をかけたりメッセージを送ると、音が鳴ったり相手がスマホを取り出したりするのでわかる。
前に大きい会社にいたときは、用事のある相手のフロアについてから内線をかけて音を鳴らして確かめたりしていた。すぐそこにいるのに「いま着きました」とか言って電話をかけてくるので、なんだこいつはと思われていたかもしれない。
アニメ
もともと(幼少期の子供向け作品を除いて)ほとんどアニメを見なかったのだが、20代後半くらいになんとなく電脳コイルを見てから、映画やドラマより好んで見るようになった。
キャラクターの顔が、例えば髪の色とか眉毛の形とかで、はっきり描き分けられているのでわかりやすい。現実もこのくらいわかりやすいといいのだが。
その他の情報
顔自体が認識できていないわけではない
人の顔がぜんぶ同じ能面みたいに見えているわけではなくて、個人の顔を見たときの「こういう顔」という感覚はある。それに伴って、例えば親しい人の顔を見ると安心する感覚もあるし、自分の子供の顔を見て可愛いとも思うし、異性の顔の好みのタイプとかも普通にある。
それから、例えば同じ顔カテゴリのAさんとBさんでも、並んでいるところを見れば別の顔であることはわかる。ただ別々にいるとわからなくなってしまうというか…。
「識別する」あるいは「記憶と照会する」という所だけがなぜかうまくできていないように思う。
カテゴリが移動することがある
これは自分でもどういう原理なのかよくわかっていないのだけど、同じ人でも最初に会ったときと次に会った時で別の顔カテゴリだと感じてしまう人がいる。会うたびに違うような人もいる。いっこうに個体識別できないのでなかなか悩ましいが、現在のところ原理がわかっていないので解決への糸口が見つかっていない。
来歴
自分が顔をあまり記憶できないことには中学高校くらいの頃には気づいていて、ただそれは自分があまり人の目を見て話さないから、単純に相手の顔を見る機会が少ないためだと思っていた。
でもかなり遅れて、たしか20代後半か30代くらいになって社会人として人間関係が広くなると、「このミニゲーム(=人の顔を見分ける)、しょっちゅうやらされる割に難しすぎでは??」と思うに至った。
そこで自分の顔の認識方法について改めて点検してみると、かなりの割合で顔そのものでなく身につけているものやシチュエーションに頼っていることに気がついた。(それまで「顔を見分ける」とはそういうことだと思って生きてきたので気づかなかった)
ほかの人にはあまり気づかれない
たぶん、僕の身の回りの人でも、僕がこうであるということに気づいていない人がほとんどだと思う。こういうのに気づきそうなほど近い関係の人の顔は、間違いなく識別できるからだ。
そこまで近い関係ではない人については接触が少ないのでそれはそれで気づかれないと思うが、すれ違いざまに挨拶できず意図せず無視する形になったりするので、単に感じの悪い奴だと思われることはしばしばあると思う。これは損。
締め
……とあたかも自分が特殊な体質であるかのように書いてみたが、正直、他人の脳で人生を生きたことがないので、僕がどの程度特殊なのかよくわからない。なんか難しいな、と思いながらも普通に暮らしてはきたわけだし。人の顔がわからないこと自体に病名のつく診断を受けているわけでもない。
世の中には顔を覚えるのが得意な人も不得意な人もいるので程度問題という気もする。また、このエントリで挙げた項目の中には、万人にとって「あるある」と思えるものも含まれているのではないか。
ただ自分は長く生きてきてやっぱり「どうもかなりこの能力が劣っているっぽいぞ」という実感があり、またASDの診断を受けたときに「そういうことだったのか」と腑に落ちるところがあった。
だからといって、この文章を通じて特に主張したいこととかはない。しいて言えばもしあなたが僕の直接の知人だったら「すれ違うとき無視されても怒らないでおこう」と思ってほしい。そのくらい。
追記
ASDの顔認知能力について論文があるそうです。
『発達障害における顔認知』(小西 海香 2016)https://t.co/tDweYFK9xW
— 小野マトペ (@ono_matope) 2022年6月3日
> 先天性相貌失認とASDでは顔認知障害のメカニズムは異なる可能性が推察された。
> ASDは健常者と異なる顔認知処理を行っているわけではないが,顔を記憶する,あるいは弁別する能力はASDで健常者よりも明らかに低い。
まさにドンピシャなことも書いてある。
ASD ではターゲット顔とターゲット顔以外の顔とを誤認することが多く,顔を正しく学習(記憶)することが困難である可能性が示唆された。