なぜパラリンピックは独自の競技でなく「車いす○○」なのだろうか

※この記事は自分が考えたことの変遷を追う形で書いています。最初の段落と最後の段落では意見が一致していません。

「車いす○○」という競技

なんとなくパラリンピックの競技一覧を見てみたら「車いすバスケットボール」「車いすテニス」「車いすラグビー」みたいなのが多くて、なんか思ったのと違うなと感じた。「○○という競技の車いす版」がずらっと並んでいるように思えたから。

もっと障害者にしかできないような、障害を生かしたスポーツが考えられないだろうか。
足の悪い人でもバスケができるのが平等な社会である……というのは、それはそうなんだろうと思うのだけど、競技のあり方としてはそうではない道もあると思うのだ。

健常者が独自の得意なスポーツを持っているのと同じように、足の悪い人も健常者にはできないような独自の得意なスポーツを持っているというありかた。
「健常者がやっているバスケを車いすでやるバージョン」ではなくて、足の悪い人が独自の「ロパタ」みたいな(これはいま適当に考えた名前だけど)スポーツを持っていてもいいと思う。それはそれで平等なありかたなのではないだろうか。*1

車いすバスケはかなり独自の競技だった

と思っていたのが昨日の話で、今日、実際に車いすバスケットの試合を見てみたら、それが普通のバスケとは全然違う競技であることがわかった。
ふつうのバスケはボールをドリブルしながら走り出すことができるが、車いすはドリブルしながら同じ手で車輪を回す必要がある。移動することの難易度が全然違う。競技性が全然違うのだ。

ということは、昨日僕が思っていたことは外れていて、「足の悪い人も独自の得意なスポーツを持っている」状況はすでに現実のものになっているのだ。

そこで新たな疑問を抱いた。せっかく足の悪い人が得意なスポーツを独自に確立できているのに、なぜそこに「車いすバスケット」という、健常者がやるバスケの代替手段です、みたいな名前を付けてしまうのだろうか。
歴史的にバスケから派生したのは事実だし、実運用としても競技名が「これはバスケです」っていうわかりやすい説明になっていることによるメリット(注目の集めやすさとか)が大きいのかもしれない。でも、なんか違和感がある。

独自の文化を尊重すること

違和感について詳しく説明すると、そうやって障害者の競技が健常者の競技のサブの位置に置かれてしまうことが、障害者の立場を尊重していないように思えたのだ。
俺は、独自の価値を認めることが「尊重」であると思う村の住人なのだ。

俺はすぐ人間の集団に対して「独自の文化」みたいなことを言い出す。
趣味がワールドミュージック収集だからということもある。たとえば日本には日本の固有の音楽が、スペインにはスペインの固有の音楽が、ジャマイカにはジャマイカの固有の音楽がある。それがそれぞれ違っていて、近い地域ではお互い影響し合ってまた新しい文化を生み出したりする。そういう「独自の文化」を認めることが、その人を、その集団を尊重することなのだと思っている。
また、その前提には、他者(他の集団)には必ず自分(や自分の属する集団)より優れたところがありそれを生かした文化を持っているのだ、という考えがある。

スポーツにしても、日本には空手があって、タイにはムエタイがあって、ブラジルにはカポエラがある。健常者と障害者の間にも、そういった独自の文化が存在してもいいのではないか。

「独自の文化」を社会的弱者にあてはめてよいのか

ただそのあと色々考えていて思ったんだけど、もしかしたらその発想は、社会的弱者にうかつに適用してはいけない、バリアフリーと真逆の考えなのかもしれない。

なぜなら、外から見て優れた独自の文化に見えるものでも、ときにそうではなくて、実は弱者ゆえに強いられているものである場合があるから。
いろいろなことをあきらめた結果、やむなく選択しているものであるかもしれないからだ。
そういう過程を経て生まれてきた文化を、どちらかというと強いてきた側である健常者が「独自の文化として尊重します」等と安易に言ってはいけないのではないか。

ちょっと前にホームレスの生活を異文化扱いして炎上した記事があった。
note.com
これに関して、俺が「独自の文化」と言っているものと近い意味で「異文化」を使っていたのかもと思う。だとすると、何が言いたかったのか理解できる。その根底には「相手には自分たちより優れたところがあり、それを生かした文化を育ててきた」という評価があって、つまりリスペクトの気持ちを込めての「(自分のものではない)彼らの文化=異文化」なのではないか。「ホームレスを異文化として切り捨ててはいけない」というコメントがあったが、「自分の持っていない尊重すべき文化(技術やノウハウなど)を彼らが持っている」ということは、「その所有者が切り捨てるべき異人である」ということを意味しない。

ただ、実は相手が社会的弱者である場合にも「異文化の尊重」という姿勢が成立するのかはあやしいのだ。
そのうたがいの前提にあるのは、社会的弱者にとってそれは強いられている文化である可能性がある、という視点だ。異文化と評価されたその文化は、いろいろなことをあきらめた結果、生き延びるために到達している文化であるかもしれない、ということだ。

自分は家を失うほど経済的に困窮していないし、五体満足である。どちらかというと、そういった文化を強いてきた側の人間ということになると思う。そう考えると、今さらそれを「尊重します」という態度は、ずいぶん傲慢なのではないか。

なぜ「車いすバスケ」なのか

話がそれた。で、話はパラリンピックに戻ったうえでいきなり結論に突入する。
そう考えると、結局やっぱり、異文化として「バスケ」と「ロパタ」に分かれてしまうよりも、みんなが同じ「バスケ」を共有できた方がいいのかな、という気がしてくるのだ。

ちょうど、なるほどそうだなと思うレスをもらったので貼らせてもらう。バリアフリーな社会というのは

こういうことなのかもしれないなと思うようになった。立場の異なるいろんな人たちが、一つの世界に生きるということは。
だから「車いすバスケット」はこれでよいのだ。


こんな話は社会問題やスポーツに専門的にかかわっている人たちはずっと前に通り過ぎた道なのだろうと思うけど、自分は素人で、個人的なパラリンピック雑感として書いた。専門家から見たらもしかしたら全然的外れかもしれない。
また、個人的にこう思ったというだけの話で、実際のパラリンピックのポリシーや歴史を研究したものではないことを書き添えておく。

*1:ちなみにそういうのも全くないわけではなくて、ボッチャのようにオリンピックにはない競技も中にはある