※社会のことはよくわからないので的外れだったらごめんっていう感じですけど、思ったことを書きます。分析とかはなくて、本当にただの感想です。緊急声明ならぬ緊急感想です。
日本に文化の庁があるということ
日本における主な価値ってお金じゃないですか。主な価値というか、「強い」価値。金があればだいたい他の価値は札束で殴れる。社会学用語がわからないのでこういう社会をここでは仮にスーパーミラクル資本主義社会と呼びますけど、スーパーミラクル資本主義社会の現代日本では、文化ってそれこそほっといたら勝手に生えてくる雑草みたいな感じの扱いなんですよね。まあ実際その辺からどんどん生えてくるんですけど、スーパーミラクル資本主義社会が経済活動を遂行していく上では文化なんて全然重視されてないというか、漫画読んでる暇あったら仕事しろみたいな価値観じゃないですか世の中が。文化は金にあんまりならない。それは文化の側がうまくやってないだけという意見もあると思うけど、それ以上に、文化に金が動く仕組みになってないと思う。いまの世の中は。
そんな中でさ、国にさ、文化庁があるんですよ。なぜか。文化の庁が。治安維持に欠かせない警視庁とかさ、あらゆる社会活動に影響する超大事な気候を担当する気象庁とかさ、そういうのと同じレベルで文化の庁っていうのがあって、国として公式に、文化には価値があります、文化は大事です、文化が社会を作るんです、という宣言をして、それを保護振興していきますという姿勢を見せているんですよ。それはすごいことじゃないですか。
海外がどうかは知らないよ。いや日本は全然でフランスみたいにもっと文化予算増やして手厚く振興していくべきとか、韓国みたいに輸出含めもっとアグレッシブに文化を活用していくべきみたいな、他国と比べ始めるとそういう意見はあると思う。でも逆に保護されなかったり、むしろ迫害されて滅びてしまった文化なんて世界中にめちゃくちゃある。迫害されて消えつつある少数民族の民芸や、国策に反する宗教が有する生活様式とか。
だけど、日本には少なくとも文化庁があって、文化は保護しますよということになっている。これはめちゃくちゃ最高なことじゃないですか。スーパーミラクル資本主義社会の中で、文化庁がなかったら、金を生み出さない文化はもしかしたら完全に無価値とみなされる世の中だったかもしれない。でも日本は幸いにもそうじゃなくて、文化庁が文化は大事ですよ、文化こそが社会を作るんですよというスタンスで国の一角を占めている。おかげで、文化を支援する法律や制度がたくさんある。それに守られて文化はすくすく育っていく。
国がそういう姿勢であることには、めちゃくちゃ効果がある。僕はヘボコンっていう技術力のない人が無理やりロボット作って戦わすイベントをやっていて、2014年に文化庁主催のメディア芸術祭で審査委員会推薦作品に選んでもらった。それがきっかけになって自分の活動が世界の25ヵ国にまで広がったり、国内でもいろんな場所で声をかけてもらって活動している。助成金を使って直接、金銭的な支援を受けたことはなくて単に1回入選作として発表されただけなんだけど、それでも自分の活動がめちゃくちゃにやりやすくなった。これは僕だけ得したという話ではなくて、それに参加した電子部品を触ったこともない人たち、通算して1000人とか2000人とかの単位のそういう人たちが、自分の手と頭でロボット作って動かす体験をして、科学やものづくりの感触を得ているんですよ。そういうことが起きる。国が価値を認めるということはそれだけのインパクトがある。
そういう経緯もあって、僕は文化庁にはめちゃくちゃ恩義を感じている。
あいちトリエンナーレ助成金撤回について
そう思っていたんだけど、きのう、あいちトリエンナーレの助成撤回の件が起きた。
自分の問題意識としてはこの署名とだいたい同じ。
キャンペーン · 文化庁は「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金交付中止を撤回してください。 · Change.org
超ざっくりいうと、これを認めると文化庁は「気に入らない展示が行われたから後出しで助成金を打ち切ります」という技が使えることになって、そうすると文化の当事者(という言葉が良いのかわからないけど)は国の顔色をうかがった活動しかできなくなることになる。これは事実上の検閲である、という話。
国は文化を保護して伸ばすことができるし、毒を撒いて殺すこともできる。そういう力を持っている。そんな状況で、国がどれを育ててどれを殺すか決めます、ってやり始めるのだとしたら、果たしてそれは検閲とどう違うのか。
禁止してるわけじゃないから検閲じゃないでしょ、国の機嫌うかがうのがイヤなら助成受けずに自費で文化活動やればいいじゃん、という意見は当然あると思う。それは実際そう。逆に、知人も何人か助成を受けているので、いやそれはちょっと難しい、やっぱり助成が必要というサイドの事情もわかる。
でもちょっと考えてほしいのは、そういう助成金が受けられなくなるのって、例えばイベントの話でいうと主催側だけの不利益じゃなくて、それでイベントができなくなったら国民の側もその文化には触れられないということになるんですよ。すると国民はAKBみたいに企業がやっている金になる(興行収入が成立する)文化か、文化庁が選んだ「日本国民にふさわしい」文化にしか触れてはいけませんということになる。それ以外の文化は伝搬が行われなくなるので死ぬ。
それは割とミクロ寄りの話なんだけど、もっと大きい話をすると、文化庁が「文化は大事ですよ」から「文化は一部を除いて大事ですよ」にメッセージを変えてしまったことがめちゃくちゃまずいと思うんですよ。「こういう文化は大事じゃないです」という。「選びますよ」っていう。「我々が認めたやつだけが文化です」。自由な文化活動に反するメッセージ。あとこれは私見ですが文化の本質は多様性だと思っていて、文化が豊かであるというのは「いろいろある」ことなんです。選び始めると文化は死ぬ。日本は文化的な国家ではなくなる。
だから自分としては今回のは由々しき自体だと考えている。
国の問題のにどのように対峙するか
ちょっと話は変わって、ここからはより個人的な感想になる。
いろいろな人の発言を見てると、今回の決定は政権の方針から来てるとか文科大臣の意思であるとか、はたまた政策の実行プロセスの問題だとか、そういうことだから「もはや単純に文化庁の問題ではない」のだ、という主張がある。
個人的には、こういう大きい問題の難しいところって、まさにそこなのだと感じている。国っていう大きい集団の中で、個々を見ると誰もがやるべきことをやっているのだ。
政権の方針なのだったらそれを支持した有権者の責任だし、有権者だって個人や所属組織に何らかのメリットがあるから与党に投票している。官僚や現場の職員は国の方針に従う必要があって政策を実行している。
本当に悪い黒幕みたいなやつがいるかどうかは怪しくて(いるかもしれないけど)、実はそれぞれの人がそれぞれの立場で、自分に課せられた義務や制限や使命や利害関係があって、その要求に従って動いている。
その一人ひとりに対して、もうちょっとよく考えてみてよ、と思う部分もそりゃある。でも、僕は少なくとも、どの立場に感情移入しても「気持ちはわかる」のだ。自分でもそうするかもなー、みたいな感じに思ってしまう。
だから特定の個人や組織を指名して「○○が悪いから怒りにいく」みたいなのは(少なくとも僕にとっては)難しくて、「文化庁があいちトリエンナーレへの助成を撤回した」というその事実に怒るしかない。「文化庁がバカだ」では解決に至らない。現象として助成金撤回が起こってしまった、そのことに怒る。自分はそれに対して怒っている、ということを世の中に表明していく。そうすることしかできないように思う。
だから署名をするとか、デモに行くとか、そういうのはとても意味のある行為だと思う。このやり方は、プログラムのバグを直すみたいな、問題の根本を叩いて原因から直すような直接的なやりかたとは違うので、まどろっこしい感じがする。なんの意味もないように感じることもある。でも、直接直せる決定的なやり方が存在しない以上、別の方法が必要なのだ。世の中全体にじわっと作用させて浸透していくようなやり方。だから多くの人に、デモや署名、それがいま世の中を変える手段と認識されて、活路として見出されているのだろうと思う。
結論のない文章になったけど、このエントリは終わりです。僕はこちらに署名しました。