暇な時間と子供の創造性

自分の子供には創造的であってほしいという思いがある。

ここでいう「創造的」というのは普段は漠然としたイメージでしか捉えていない。ただこの機会に改めて考えてみるとこういうことだ。自分でアイデアを生み出しそれを形にしていく姿勢だとか、あるいは単純に物を作ったり創作活動をすることの楽しさを知ってほしい、ということ。
親として子供の生き方を規定したいわけではない。ただ、自分がわりと物を作ったり文章を書いたり音楽を作ったりすることを好んでこれまで生きてきたので、そういった楽しみを知って愉快に生きてほしい、という思いが強いのかもしれない。

自分の子供、二人いて下の子はまだ小さいので上の子の話をするけれども、彼はあまり絵をかいたりとか工作をしたりとかしないタイプで、父親の立場としてはまあそんな感じなのかなと思っていた。そういう生き方もあるね。

それが小学生になって、さいきん寝る時間をちょっと遅らせて暇な時間を作ったところ、その時間を使って一人で段ボールで電車の車庫を作ったり、紙でお金を作ったりとなんだかんだ作っている。
先日はずっと机に向って何か書いているなと思ったら、旅行に関するアンケートを作っていて、あとで回答するように促された。
ふだんは習い事を掛け持ちしていたり、そうでなくても共働き家庭で学童保育に行っているため家でゆっくりと過ごす時間が少なく、単にそういった活動に充てる時間がなかっただけなのかもしれない。
いや、モチベーションも高まっている気がする。過去には何度か休日に段ボールで工作をしていたこともあるけど、ここまで意欲的にいろいろ作っている時期というのはなかった。

モチベーションについては思い当たるきっかけもある。
長期休暇の平日、子供はふだん学童に行っている。が、この冬休みに一日だけ家にいる日を作ったのだ。
ただし自分は在宅で仕事をしていたので、「お父さんに話しかけない」が条件。
最初はテレビを見たりプラレールで遊んだりと、ふだんやりたくてもじっくり時間の取れないあれこれを満喫していたのだけど、それも数時間で飽きてしまった。するとおもむろに引き出しから塗り絵を出してきて、一心不乱に塗り始めた。
そのときはふつうに色を塗っていると思っていたのだが、あとから見るとそうではなかった。対象物の本来の色を無視して部位ごとにクーピーの端から順番に使って塗っていって、全ページ虹色っぽい感じに仕上げていた。
僕が驚くと、自分が考えた手法であると言って、誇らしそうにしていた。

暇が創造性を育てる、というのは自分の持論である。
自分も両親が共働きで、しかし当時、自宅の近くには学童保育というものがなかったので、小学校低学年のうちから鍵を持たされて一人で留守番していた。友達と遊びに行くこともあったけど、わりと家にいたように思う。その膨大な時間を使って、カセットテープに何か吹き込んで遊んだり、プラモデルを勝手な形に作ったり、パソコンを触ったり……ということをやっていて、それが今の自分の創造性につながっている、と感じる。
ただし、それは自分ひとりの人生から導いた法則であって、かなりの片寄りがあるとも思うのだ。人間は自分の知っていることだけを材料に物事を判断しがちだ。
だから一般化していいものかどうか、よくわからない。

しかしながら、その持論が正しいとすれば、この日が転機だったような、となんとなく思う。
創造性が発揮されるには時間が必要だ。自宅で黙って過ごす一日であったり、寝る前の1時間であったり。

親の背中を見て育つ、という言葉がある。そういう影響もあるかもしれない。
最近はできるだけ何かを作ったときに子供にも見せるようにしていて、先日書いたオープンソースロボットのOTTOを作った時とか、まえにMicro:Bitでハローキティを光らせたときとか、どうでもいいものまで割と見せている。
そうして子供は「うちのお父さんはロボットが作れる」と誇らしく思ってはいるようだが、特に技術に興味を示したりということはない。
僕は僕で、子供が寝静まってからそういう作業をするので、子供の前で何かを作るということはあまりない。
親の背中はどこまで背中たりうるだろうか。自分が寝ている間にしか登場しない背中というのもあるのだろうか。

話がそれたので暇の話に戻るけど、子供に暇を作ることのむずかしさとして、一緒にいると口を出してしまうというのもある。
冬休みのあの日は僕は自分の仕事をしていたし、寝る前の時間も早々に自分の趣味のことを始めてしまったりして、あまり干渉していない。
横からああだこうだ言われると何となく作業に方向性が生まれてくるので、自由奔放に好きにやるということができなくなってしまう。
話しかけてはいけないくらいが、かえって自由にやれていいのかもとも思う。

でも、ここに書いたことは全部間違っているかもしれないのだ。創造性には暇の有無は関係なくて、親がきっちり創作の基礎をたたき込むことの方が大切である、ということもありうる。そこはもう誰にも分らない。
子育てに関しては、確かなことが何も言えない。何も明確なものがないと感じる。
ゴールに近づくとか遠ざかるといった感覚すらなくて、ただ一日一日の積み重ねがあって、そこに一喜一憂があるだけだ。

そして子供は自分のしたいことしかしない。僕が創造的であってほしいと思っても一緒に人生ゲームをしようと言ってくる日もあるし、それに応じるのも父の役割だと思う。
そういう意味では選択権はないと言える。ステータスは勝手に割り振られていくのだ。もしかしたら最終ステータスは最初から決まっていて、子供は決まった方向を目指して成長していくだけなのかもしれない。

育児は全権を委任されたミッションのように思えることもあるし、ただの現象であるように思えることもある。そんな不思議な感覚がある。